数学教育における論理
――考えるほど難しい面のあることに気付きました――

私の原点は憲法と論理です
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「数学と社会の関係を考える数学人の集い」ですが、2022年の12月4日に第一回の会合を開いて、昨日、12月7日の日曜日で第19回目を迎えました。偶数月の第一日曜日、午後7時から9時までという時間枠ですが、現在の参加者メンバーは約60人です。毎回の参加者は20人を少し超える位でしょうか。
第一回の数学人の集いについてのお知らせを、このブログでも取り上げましたので、それを再掲します。
念のためお断りしておきますが、現在では午後時から7午後9時までの2時間に開いています。
今回は数学教育における「論理」について議論しました。参加した皆さんから大変熱い思いが語られてとても勉強になりましたが、同時に考えれば考えるほど難しいことにも気付きました。
私にとって論理と言う切り口で物事を考えると、やはり憲法の規定が最初に頭に浮かびます。そして『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』が私にとっての原点になります。今回もその点について発言したかったのですが、場違いになりますので遠慮して、このブログで私の言いたかったことの一部を吐露させて頂きます。
ということで、数学人の集いの内容とは少し離れるのですが、拙著『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の中から、第5章の最初の部分で「証明した」定理「憲法は死刑を禁止している」の最初の部分をお読み頂ければと思います。
以下引用です。
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《[定理A] 憲法は死刑を禁止している》
以下、前段では、憲法が明確に死刑を禁止していることを証明します。二つの異なったルートを辿るのですが、第一のルートでは、死刑が憲法違反であることを直接、証明します。二番目はそれとは独立したルートです。最高裁判所の昭和23年判決を俎上に載せ、その議論の中身を検証することによって、死刑が合法だという主張には無理のあることを示します。
憲法中に、「死刑を禁止する」という趣旨の明文規定はありません。しかし、憲法を論理的に読むと、死刑は禁止されています。これが本章の中心的命題です。以下その点を簡潔に説明しますが、意図して「簡潔」にするのではなく、憲法が示している原理・原則から簡潔な推論で結論に至るという意味です。
既に第一章で「人命尊重原則」として述べたことの繰り返しにはなるのですが、重要な点ですので、再度詳細に「証明」を辿りたいと思います。
ここで根拠にするのは、憲法12条の最初の部分と13条の冒頭、そして25条です。11条と97条も同様の議論をする根拠になりますが、より具体的なシナリオが展開できるこれらの3条に焦点を合せます。まず、これらの3条を読み直してみましょう。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(以下略)
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(以下略)
この3つの条文の内、「生命」そして「生活」という言葉が出てくるのは13条と25条ですので、まずこれら二つについて考えたいと思います。13条で使うのは、最初の「すべて国民は、個人として尊重される」の部分です。参照する手間が掛らないよう、以下、13条の分解形を再掲載します。特に、 [絶対則13.0]には、「公共の福祉に反しない限り」という例外規定が適用されない点が重要です。
[絶対則13.0] すべて国民は個人として尊重される
[本則13.5] 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
[例外規定13.6] 但し、公共の福祉に反する場合には、この (本則13.5の) 限りではない。
《[定理A]の証明》
さて証明に移ります。[絶対則13.0] の中で「個人」とは、一人の人間を指しますが、それも生きている人間です。亡くなった人を指す言葉として「故人」のあることを考えると、「生きている」という事実が、「個人」である上での必要不可欠な要件であることが分ります。さらに、25条では、「生活を営む権利」という表現が使われています。「生活」とは、生きている人間が日常的な活動をすることを意味します。こちらも「生きている」という前提がないと、条文の意味がなくなってしまいます。さらに、25条は [例外規定13.6]のような例外規定にも縛られていませんので、これも素直に自然に読んだ結果です。
12条、13条、25条のどちらも、主体は「国民」です。その中には犯罪を犯した人も入りますので、その人に死刑が科されるかどうかの判断にもこれら三つの条文が関わってきます。さて、仮に国家が、犯罪者に対して死刑を執行したとしましょう。その行為は許されるのでしょうか。
換言すると、死刑を執行するという行為は、死刑によって命を奪われる個人を13条の要請通り尊重したことになるのでしょうか。答は明らかだと思います。「尊重」の対象となるのは、「生きている」という厳しい条件が付いている「個人」です。その存在を無くしてしまうことは、「尊重」の対極にある行為であって、それは13条違反です。
同様に、25条についても同様の議論が成り立ちます。「最低限度の」という限定的な条件が付けられていますが、しかし「生活」は「生活」です。生きていなくては生活できないのですから、その「生」を奪うことは、「生活の権利」の侵害です。
12条では、国民の不断の努力によって自由や権利を保持しなくてはならない、という義務が課せられています。「不断」ですから、個人が途中で止めることはできません。さらに、公権力がこの「不断」に介入して途絶えさせてはなりません。ましてや、個人の命を奪って「不断」を「断」にしてしまうことは許されません。と見てくると、憲法は少なくとも3か条においてそれぞれ別の立場から明確に死刑を禁止していることになります。Q.E.D (*)
憲法では、複数の独立した条文から、これほど簡単に死刑の禁止が証明されるのですが、それを無視した上で、最高裁判所が死刑は合憲であるという判断をしているのも、私には「憲法マジック」の一つのように思えます。続いて最高裁の判例に沿って死刑禁止を考えて見ましょう。
これで引用は終わります。
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実は昭和23年に、最高裁判所が日本国憲法は憲法違反ではないという判決を出しています。しかしながら、それは非論理的かつ強引さの極みと言ってもよい代物ですので、拙著の中でも取り上げていますが、長くなりますし、かなり複雑ですので、できれば直接、拙著をお読み頂ければと思います。
皆様にとって、きょう一日が素晴らしい24時間になりますよう!
[2025/12/8 人間イライザ]
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