ヒロシマの心を世界に [春宵十話]

核のない平和な未来を創るために

皇室典範をいじるなら (2) ――当事者の意見を聞くのは当然でしょう――

皇室典範をいじるなら (2)

――当事者の意見を聞くのは当然でしょう――

人権を考える基本です

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皇族の数を確保するための「全体会議」についての続きです。これまでこのブログで取り上げた二回のリンクを貼っておきます。[リンクは右クリックしてから左クリックで開いて下さい]

一回目はこちらです。

二回目はこちら

全体会議の考え方では、皇族の数を増やすことが天皇性を続けるために必要だという認識です。そこでいろいろな議論がなされて近い内に結論をまとめ、国会でも議論をすることになるようなのですが、ここで私が問題にしているのは、皇室典範そのものが合憲かどうかという点です。特に、天皇や皇族の人権です。

その際、出発点として、天皇並びに皇族が日本国民であるかどうかも確認する必要があります。その点についても『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の中で議論をしていますし、このブログでも取り上げました

 

しかし一番大切なのは、皇族の数を増やすと言っても、そこに直接関わっている皇族の皆さんがいるという事実です。関係者と言うよりは、当事者と言った方が適切かもしれません。その人たちの考えを全く聞かずに議論が進んでいるように思えるのですが、そんなことがあって良いのでしょうか?

良い訳がありません。何らかの形で当事者の考え方は尊重されなくてはなりません。それが人権の基本です。でもそうすると別の問題が発生します。憲法第4条と第7条です。

第4条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

そして第7条には国事行為の一覧があります。

第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。

二 国会を召集すること。

三 衆議院を解散すること。

四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。

五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。

七 栄典を授与すること。

八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。

九 外国の大使及び公使を接受すること。

十 儀式を行ふこと。

「皇族のあり方についての意見を述べる」は、この中のどれにも該当しません。意見は述べられないのでしょうか。

しかし、明示的には書かれていないにしろ、例えば内閣が天皇の意思を聴取することは禁止されていません。天皇や皇族の意思は、尊重しようとすればできるのです。そして、天皇や皇族はこの問題について、「当事者」の皆さんは、「尊重」することが大切だという発言をしています。

日テレNEWSの「news every.」の内容をアップしているサイトに、天皇や上皇、秋篠宮の考え方を要約した表がありましたので、そちらも御覧下さい。

全く別のトピックになりますが、再審制度を改正する際にも「当事者」の考え方が重要であることは論を俟たないでしょう。法律の議論では、一人の人間の人権を尊重することが基本なのです。それが皇室典範、天皇制のあり方の議論でも基本であることに変わりはないのではないでしょうか。

 

様にとって今日一日が、良き日になることをお祈り致します。

[2026/5/19   人間イライザ]

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皇室典範をいじるなら ――合憲性も考慮すべきでは――

皇室典範をいじるなら

――合憲性も考慮すべきでは―

飛鳥時代には女性天皇がいたのですから

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昨日の続きです。 [リンクは右クリックしてから左クリックで開いて下さい]

この文章を書いたのは、前回も注意書きとして付け加えておきましたが、今から40年近くも前の1989年3月です。今の上皇が新天皇になられた年ですので、平成元年だということは簡単に分ります。でもそれが何年前になるのかと言われると、西暦のように計算すれば分る話ではないので、やはり不便です。そして、1989年は昭和64年と平成元年と二つの元号にまたがっていますので、計算はなお複雑です。

それはさておき今回は、新天皇に期待をするのは何故か、の説明を引用しています。ここで改めて考えていただきたいのは、天皇の公的な言動については、憲法第4条と第7条によって内閣が責任を負っているのですが、当時の毎日新聞の報道によると、天皇に与えられたスピーチの一部を新天皇が飛ばして読まれたとのことなのです。

私が期待をしたのはその点です。新天皇の知的誠実さを読み取ったからなのですが、同時に、天皇の知的良心を公に表現できる限度はどのくらいなのかという、現実的な問題についても考えない訳には行かないことにも気付きました。そのことも頭に置いてお読み頂ければ幸いです。

この点については、拙著『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』(法政大学出版局、2019年刊) の第九章「天皇の憲法遵守義務」で詳しく論じていますので、お読み頂ければ幸いです。

ただし、この章の最後までお読み下さい。ある専門家は、恐らくこの章の最後までは読まずに、私が論じる天皇の遵守義務の実質が「憲法に反する行為」と決め付け、それは間違っていると論じています。私の論じ方にも問題はあったのかもしれませんが、あくまでも憲法の許す範囲で、しかも内閣や政治と独立して、天皇が自らの意思を表現する手段はあるのです。

以下、昨日に続いて序章「ケネディー大統領と昭和天皇」からの引用です。

《新天皇への期待》

私だけの思い込みでないことを祈るのだが、仮にマスコミが重い腰を上げなくても、事態が改善されそうな兆候がある(そうした芽が出たときに、それを摘んでしまうことだけは避けてもらいたい)。

2月24日、いくつかの弔辞の中で際立っていたのが、新天皇の言葉だった。竹下首相が「昭和天皇は、世界の平和と国民の幸福を心から願われ」と述べたのに対し、新天皇は「ひたすら国民の幸福と平和を祈念され」と表現した。新聞報道によると、原稿には「国民の幸福と世界の平和」と書かれていたのだが、24日、新天皇は「『世界の』をはぶかれてお読みになった」のだそうである。

これを私は、新天皇の「知的誠実さ」の表現だと考えている。側近の準備した原稿をそのまま読まずに、歴史に忠実に、かつ自分の言葉に直して伝えたいと、新天皇は考えたのではあるまいか。もしそうなら新天皇には、これからも知的に誠実であって欲しい。表現の自由をも含めて、日本国民の持つすべての権利を獲得するように努力を続けて欲しい。

天皇が、権利についても義務についても、日本国民の一人となり、大多数の国民との間に、人間的なつながりができた時、はじめて彼(または彼女)は本当の意味で日本国民の象徴になるのではないだろうか。

さて、40年近く前に綴った拙文をお読み頂いた後で、時計を現在に戻しましょう。

憲法の第一条に天皇の存在と意味付け、つまり定義が書き込まれていますので、憲法改正をしない限り天皇制は続きます。しかしながら、現在の皇室典範のままでは、その天皇制が続かない可能性もあるというのが、「皇族数確保に関する衆参両院全体会議」 (全体会議と略) の認識です。では、天皇制を続けるために何が必要なのでしょうか。

全体会議の考え方は、「皇族の数を増やす」、が答だと考えているようです。

それも必要なのかもしれません。しかし、私は1989年に感じたように、「天皇が、権利についても義務についても、日本国民の一人となり、大多数の国民との間に、人間的なつながりができた時、はじめて彼(または彼女)は本当の意味で日本国民の象徴になるのではないだろうか。」が理想的姿だと今でも思っています。

仮に皇室典範を全面的に改訂することになったとしても、天皇や皇族の人権が100%守れるような内容にできるのかどうかは分りませんが、今よりは改善されることが多くの国民の目に明らかになるような形での変更はできるでしょう。

その視点も付け加えての解決策の一つが、女性天皇を認めることなのではないでしょうか。そして全体会議の二つの案については、天皇や皇族の人権をより強く擁護することにはなりません、そして「今よりは改善されることが多くの国民の目に明らかになるような形」でもありませんので、両方とも保留にすることでしょう。

当然の結論になったような気もしますし、尻切れトンボのような感もありますが、この議論は今後も続けます。

 

様にとって今日一日が、良き日になることをお祈り致します。

[2026/5/18   人間イライザ]

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皇族の数を確保する? ――天皇や皇族の人権への配慮はどこに?――

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――天皇や皇族の人権への配慮はどこに?――

拙著で考えてみました

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ネットで調べた限りでは、この会の名称もはっきりしないのですが、仮に「皇族数確保に関する衆参両院全体会議」ということにして、考えてみたいと思います。

議論の内容は次のようなものだとのことです。

15日、皇族数の確保策について話し合う与野党の全体会議が開かれました。皇族数の減少が課題となるなか、会議では、女性皇族が結婚後も皇族の身分を保つ案と、旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎える案という、2つの案について議論されています。

ニュースの取り上げ方や議論の内容をざっと見るうちに、皇族や天皇の人権への配慮があるのかなという疑問が頭をもたげてきました。

さて、時間は40年以上前になりますが、タフツ大学時代の同僚だったI教授が発した疑問について考えるうちに、『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』(法政大学出版局刊、2019年) を書くことになりました。

I教授の疑問は、天皇に日本国民としての人権が保障されているのかという点だったのですが、答えは「No」です。そして今回の議論でも、天皇だけではなく、皇族、あるいはこれから皇族になるかもしれない人々の人権についての配慮があまりないような気がするのですが、どうなのでしょうか?

でもなぜそんな疑問を持つのか、もう一度天皇の人権について、大雑把にではありますが、考えたときの論考を拙著から引用してお届けしておきます。序章「ケネディー大統領と昭和天皇」の一部ですが、元々の文章は昭和天皇が亡くなられた直後、現上皇が即位された後の1989年 (平成元年) 3月に書いたものです。「新天皇」は現上皇を指していますし、「昨年」は1988年です。御注意下さい。長いので、二部に分けます。以下引用です。

《天皇の人権》

これは、ことによると、天皇個人の人柄や責任に帰されるべきことなのかもしれないが、より大きな原因は、制度・慣行にあると考えた方がよさそうだ。その中で最も重要なのは憲法である。私が言いたいのは、憲法が、天皇を人格のある人間、そして日本国民だとは明記していない点である。人間でなければ人間の言葉で他の人間と語り合うこともないだろう。その上、天皇個人の基本的人権が侵されても救済手段がないことになる。

天皇の人権についての疑問は、私が15年在職したタフツ大学の同僚I氏がかつて投げかけたものである。彼の疑問に答えるために、六法全書を繙いてみたのだが、憲法、皇室典範、国籍法のどこにも、天皇が日本国民なのかどうかは明記されていなかった(いやそれどころではない。昭和22年5月3日に施行された憲法にも皇室典範にも天皇の定義がない。という事は……と論を展開する必要もあるのだが、そのためには本項で提起したい問題とはかけ離れた議論をしなくてはならない。混乱を避けるため、「日本国民としての天皇」のレベルで話を続けたい)。

I氏は、人間としての権利を保障されていない人に、責任(彼は戦争責任を考えていた)だけを問うのはフェアでない点を指摘したのだが、広島修道大学の学生達の意見の中には、責任を取れるかどうかの能力を問題にしたものがあった。仮にアンフェアであっても、天皇は責任を取りたかったのかもしれない。そうだとしても、天皇の権限や権利があまりにも厳しく制限されていて、自主的に責任を取ることなど不可能だったのではないか、今でも不可能なのではないか、というものである。

実際、憲法や皇室典範の規定によると、天皇および皇族の権利は著しく制限されている。人間として当然享受すべき権利という観点からだけでなく、国民の統合の象徴として国民との間の人間的絆、信頼関係を作り出すことが可能かどうか、という視点からも、いくつかの例を見てみよう。

まず、天皇は男でなくてはならない(皇室典範第1条)。皇族として生まれた女性にとっては明らかな差別である。また国民統合の象徴が女性であってはいけないとは、日本の全女性にとって大いなる侮辱ではないだろうか。神功皇后や持統天皇を持ち出すまでもないが、天皇には男性しかなれない法律は、性別にかかわらず法の下では平等であると明記した憲法14条違反ではないだろうか。

次に、天皇及び皇族は、「養子をする」ことができない(皇室典範第9条)。血のつながりのない子供を自分の子供とし(生命を賭けて)育てられる人を、私は尊敬する。しかし、仮に天皇がそのような気持を持ったとしても、「養子をする」ことができないのである。皇族は、絶対にそんな気持は抱かない人々なのだろうか。幸いにも、この点についての救済策はある。皇籍を離脱すれば可能なのである。しかし、それも、自分の意思だけでは駄目なのだ。「皇室会議の議」が必要なのである(皇室典範11条)。天皇を一種の職業と考えれば、辞職することさえ自分で決められないのである。皇長子の場合、生まれた時から(15歳になって皇籍を離脱しない限り)職業が決まっていることにもなる。これは、憲法22条に反しているのではあるまいか。

 

《親としての天皇》

天皇は、養親になれないどころか、自分の子供がいても、親としての楽しみを奪われている。子供が成長し、自分の能力に合った仕事を見付け、1人の独立した人間として社会に有益な貢献をしている様子を見ることは、親としての喜びの最たるものではないだろうか。しかし、天皇はその喜びを与えられていない。それは、皇太子に職業選択の自由がないからでもあるが、慣行では、天皇が生存中に譲位することはないからだ。

庶民でも、高齢になれば隠居して、仕事は若い人に譲るのが常識である。元気のあるうちは仕事に励んでも、例えば、70歳にでもなったら退位し、余世は自分の好きなこと(生物学の研究でも、社会福祉のためのボランティアでも良い)を自分のペースで楽しんでも良いのではないか。皇室典範でも、譲位を禁止してはいないのだから、ちょっと手直しをすれば天皇が堂々と退位できる制度に作り変えられるような気がする。

天皇の死に際しても、これが退位後の上皇(と仮に呼んでおこう)であれば今回のような混乱はなくて済んだのではあるまいか。それは、たとえ日頃から後継者の育成を心がけている人でも、具体的にバトンタッチをする人や時が決まってからでないと、何を伝えておくべきか身を入れて考えられない例が多くあるからだ。

このことは、より一般的に、だれが死ぬ際にも言えることではないだろうか。あと何ヶ月しか生きられないとしたら、身近の人たちに伝えたいこと、生きている間にしておきたいこと等を整理して、その間に何とか済ませてしまいたいと考える人は多いだろう。昭和天皇も、ガンだと知らされていれば、国民の多くに残しておきたい言葉があったのではないだろうか。

それが「済まなかった」であれば、多くの人々の心の傷が癒えたはずである。他の言葉だったとしても、これからの時代を迎えるに当っての一つの方向が打ち出されたのではあるまいか。

天皇には、そして国民にも、天皇の病がガンであることを知らせるべきだった、と私は考えているのだが、その理由は、誰にもあてはまるものである。死に行く人を囲んで、嘘で塗り固めた「劇」を演じることで、私たちは、人間の一生の内、ことによると一番大切な期間を無駄にしている。自分にとって一番身近な人々が、自分にとって一番大切なことについては何も喋らずに数カ月過ごすーーそれが私たちの描く理想的な人間関係なのだろうか。そうではないはずだ。

それはまた、天皇と多くの国民との間についても言えることである。数カ月の間、嘘を心から信じて「平癒」を祈って来た人々が多くいる。その人たちが真実を知らされていれば、別の祈りがあり、別のコミュニケーションが可能になったのではあるまいか。

だが、私がそれと同じくらい大切な問題だと思うのは、嘘をデッチ上げ、何も知らない庶民に伝え続けてきた人々が、そのことに何の責任も感じていないらしいことである。事実を、真実を伝えるのがマスコミの務めではなかったのだろうか。

ガンの告知はまだ社会的に受け入れられ難い事は認めても良い。しかし、嘘八百の報道をすることとの間には一線が画されて当然だろう。もちろん、一線をどこに引けば良いのか、簡単に決められることではない。昭和天皇亡き今、衆知を集めて議論すべきことなのではあるまいか。

また昨年9月以来、私がここで触れた点も含めて、一体「象徴」とは何を意味するのかについて万人の納得できる解釈が存在しないことも明らかになった。それをよりはっきりさせて行くのは国民である。そのための問題提起をし、論点を整理して、議論を沸き起すのは「知識人」そしてマスコミの役割だろう。

[以下、続きます]

 

様にとって今日一日が、良き日になることをお祈り致します。

[2026/5/17   人間イライザ]

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