皇族の数を確保する?
――天皇や皇族の人権への配慮はどこに?――

拙著で考えてみました
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ネットで調べた限りでは、この会の名称もはっきりしないのですが、仮に「皇族数確保に関する衆参両院全体会議」ということにして、考えてみたいと思います。
議論の内容は次のようなものだとのことです。
15日、皇族数の確保策について話し合う与野党の全体会議が開かれました。皇族数の減少が課題となるなか、会議では、女性皇族が結婚後も皇族の身分を保つ案と、旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎える案という、2つの案について議論されています。
ニュースの取り上げ方や議論の内容をざっと見るうちに、皇族や天皇の人権への配慮があるのかなという疑問が頭をもたげてきました。
さて、時間は40年以上前になりますが、タフツ大学時代の同僚だったI教授が発した疑問について考えるうちに、『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』(法政大学出版局刊、2019年) を書くことになりました。
I教授の疑問は、天皇に日本国民としての人権が保障されているのかという点だったのですが、答えは「No」です。そして今回の議論でも、天皇だけではなく、皇族、あるいはこれから皇族になるかもしれない人々の人権についての配慮があまりないような気がするのですが、どうなのでしょうか?
でもなぜそんな疑問を持つのか、もう一度天皇の人権について、大雑把にではありますが、考えたときの論考を拙著から引用してお届けしておきます。序章「ケネディー大統領と昭和天皇」の一部ですが、元々の文章は昭和天皇が亡くなられた直後、現上皇が即位された後の1989年 (平成元年) 3月に書いたものです。「新天皇」は現上皇を指していますし、「昨年」は1988年です。御注意下さい。長いので、二部に分けます。以下引用です。
《天皇の人権》
これは、ことによると、天皇個人の人柄や責任に帰されるべきことなのかもしれないが、より大きな原因は、制度・慣行にあると考えた方がよさそうだ。その中で最も重要なのは憲法である。私が言いたいのは、憲法が、天皇を人格のある人間、そして日本国民だとは明記していない点である。人間でなければ人間の言葉で他の人間と語り合うこともないだろう。その上、天皇個人の基本的人権が侵されても救済手段がないことになる。
天皇の人権についての疑問は、私が15年在職したタフツ大学の同僚I氏がかつて投げかけたものである。彼の疑問に答えるために、六法全書を繙いてみたのだが、憲法、皇室典範、国籍法のどこにも、天皇が日本国民なのかどうかは明記されていなかった(いやそれどころではない。昭和22年5月3日に施行された憲法にも皇室典範にも天皇の定義がない。という事は……と論を展開する必要もあるのだが、そのためには本項で提起したい問題とはかけ離れた議論をしなくてはならない。混乱を避けるため、「日本国民としての天皇」のレベルで話を続けたい)。
I氏は、人間としての権利を保障されていない人に、責任(彼は戦争責任を考えていた)だけを問うのはフェアでない点を指摘したのだが、広島修道大学の学生達の意見の中には、責任を取れるかどうかの能力を問題にしたものがあった。仮にアンフェアであっても、天皇は責任を取りたかったのかもしれない。そうだとしても、天皇の権限や権利があまりにも厳しく制限されていて、自主的に責任を取ることなど不可能だったのではないか、今でも不可能なのではないか、というものである。
実際、憲法や皇室典範の規定によると、天皇および皇族の権利は著しく制限されている。人間として当然享受すべき権利という観点からだけでなく、国民の統合の象徴として国民との間の人間的絆、信頼関係を作り出すことが可能かどうか、という視点からも、いくつかの例を見てみよう。
まず、天皇は男でなくてはならない(皇室典範第1条)。皇族として生まれた女性にとっては明らかな差別である。また国民統合の象徴が女性であってはいけないとは、日本の全女性にとって大いなる侮辱ではないだろうか。神功皇后や持統天皇を持ち出すまでもないが、天皇には男性しかなれない法律は、性別にかかわらず法の下では平等であると明記した憲法14条違反ではないだろうか。
次に、天皇及び皇族は、「養子をする」ことができない(皇室典範第9条)。血のつながりのない子供を自分の子供とし(生命を賭けて)育てられる人を、私は尊敬する。しかし、仮に天皇がそのような気持を持ったとしても、「養子をする」ことができないのである。皇族は、絶対にそんな気持は抱かない人々なのだろうか。幸いにも、この点についての救済策はある。皇籍を離脱すれば可能なのである。しかし、それも、自分の意思だけでは駄目なのだ。「皇室会議の議」が必要なのである(皇室典範11条)。天皇を一種の職業と考えれば、辞職することさえ自分で決められないのである。皇長子の場合、生まれた時から(15歳になって皇籍を離脱しない限り)職業が決まっていることにもなる。これは、憲法22条に反しているのではあるまいか。
《親としての天皇》
天皇は、養親になれないどころか、自分の子供がいても、親としての楽しみを奪われている。子供が成長し、自分の能力に合った仕事を見付け、1人の独立した人間として社会に有益な貢献をしている様子を見ることは、親としての喜びの最たるものではないだろうか。しかし、天皇はその喜びを与えられていない。それは、皇太子に職業選択の自由がないからでもあるが、慣行では、天皇が生存中に譲位することはないからだ。
庶民でも、高齢になれば隠居して、仕事は若い人に譲るのが常識である。元気のあるうちは仕事に励んでも、例えば、70歳にでもなったら退位し、余世は自分の好きなこと(生物学の研究でも、社会福祉のためのボランティアでも良い)を自分のペースで楽しんでも良いのではないか。皇室典範でも、譲位を禁止してはいないのだから、ちょっと手直しをすれば天皇が堂々と退位できる制度に作り変えられるような気がする。
天皇の死に際しても、これが退位後の上皇(と仮に呼んでおこう)であれば今回のような混乱はなくて済んだのではあるまいか。それは、たとえ日頃から後継者の育成を心がけている人でも、具体的にバトンタッチをする人や時が決まってからでないと、何を伝えておくべきか身を入れて考えられない例が多くあるからだ。
このことは、より一般的に、だれが死ぬ際にも言えることではないだろうか。あと何ヶ月しか生きられないとしたら、身近の人たちに伝えたいこと、生きている間にしておきたいこと等を整理して、その間に何とか済ませてしまいたいと考える人は多いだろう。昭和天皇も、ガンだと知らされていれば、国民の多くに残しておきたい言葉があったのではないだろうか。
それが「済まなかった」であれば、多くの人々の心の傷が癒えたはずである。他の言葉だったとしても、これからの時代を迎えるに当っての一つの方向が打ち出されたのではあるまいか。
天皇には、そして国民にも、天皇の病がガンであることを知らせるべきだった、と私は考えているのだが、その理由は、誰にもあてはまるものである。死に行く人を囲んで、嘘で塗り固めた「劇」を演じることで、私たちは、人間の一生の内、ことによると一番大切な期間を無駄にしている。自分にとって一番身近な人々が、自分にとって一番大切なことについては何も喋らずに数カ月過ごすーーそれが私たちの描く理想的な人間関係なのだろうか。そうではないはずだ。
それはまた、天皇と多くの国民との間についても言えることである。数カ月の間、嘘を心から信じて「平癒」を祈って来た人々が多くいる。その人たちが真実を知らされていれば、別の祈りがあり、別のコミュニケーションが可能になったのではあるまいか。
だが、私がそれと同じくらい大切な問題だと思うのは、嘘をデッチ上げ、何も知らない庶民に伝え続けてきた人々が、そのことに何の責任も感じていないらしいことである。事実を、真実を伝えるのがマスコミの務めではなかったのだろうか。
ガンの告知はまだ社会的に受け入れられ難い事は認めても良い。しかし、嘘八百の報道をすることとの間には一線が画されて当然だろう。もちろん、一線をどこに引けば良いのか、簡単に決められることではない。昭和天皇亡き今、衆知を集めて議論すべきことなのではあるまいか。
また昨年9月以来、私がここで触れた点も含めて、一体「象徴」とは何を意味するのかについて万人の納得できる解釈が存在しないことも明らかになった。それをよりはっきりさせて行くのは国民である。そのための問題提起をし、論点を整理して、議論を沸き起すのは「知識人」そしてマスコミの役割だろう。
[以下、続きます]
皆様にとって今日一日が、良き日になることをお祈り致します。
[2026/5/17 人間イライザ]
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