優しい正子ちゃん
――爆風の起した悲劇――

『空が、赤く、焼けて』
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私が日頃、尊敬し期待している論客和田秀樹さんの原爆についての問題提起について、事実誤認があるのではないかと考え、その指摘をシリーズになってしまいましたがしています。第一回目からお読み下さい。今回は第三回目です。[リンクは、右クリックの後、左クリックで開けて下さい]
《『空が、赤く、焼けて』》
この本は2015年に小学館から刊行され、そして文庫本が昨年2025年に出版された感動的な一書です。長い間、限られた皆さんの元にしか届いていませんでしたので、お節介ですが、私から小学館にお願いをして出版して頂きました。
著者の奥田貞子(おくだ・ていこ)さんは、当時31歳。広島市内に出かけた甥と姪が帰ってこないので、市内に2人を探しに広島市内を歩き続けるのですが、その間、子どもたちを探していますので、自然に多くの子どもたちと出会うことになり、その子どもたちの様子を克明に記録したものです。貞子さんの温かい眼差しと子どもたちの健気さに打たれ涙なしには読めない本です。
同じような子どもたちの記録としては『原爆の子』(岩波書店)がありますが、『原爆の子』が、生き延びた子どもたち自身の書いた記録であるのに対して、『空が、赤く、焼けて』は亡くなって行く子どもたちの最期を、大人の目で記録しています。皆さんにも是非お読み頂きたいのですが、今回は爆風の影響です。純粋な、優しい正子ちゃんととおじいさんのエピソードですが、本当に悲しい、でも人間の優しさに心打たれます。ちょっと長くなりますが、お読み頂ければ幸いです。以下、同書の33ページからの引用です。
《優しい正子ちゃん》
勇気を出してまた探し回る。ちょうど御幸橋(みゆきばし)(京橋川にかかる橋)を渡って右側にまがった所で休んでいると、年寄りと子どもの話し声が聞こえてきた。
「おじいちゃん、うちねェ、目の痛いのは、だいぶよくなったけど、まだ何も見えんのよ。見えたら、 おじいちゃんの背中の硝子みんな取ってあげられるのにねェ・・・・」
「ウウン、もういい。それより正子の手の方がわしの背中の傷よりひどいなァ。もう、硝子取らんでもええ。正子の指が痛いだろう?」
そんな話し声のする方へ私は行ってみた。そして、ここでもまた息がつまる思いをさせられた。おじいちゃんの背中、顔、手、と血まみれでどす黒くなっている。それに右手の先がなくなっている。残った左手で孫の肩を抱くようにして二人が寄りそっている。
「裏の畑に行って、帰りに、ピカッ、と光ったと思うと、小屋の下敷になってしまった。やっと這い出して孫を探しているうちに、大きな鉄の棒のようなものが、倒れかかって、それを手でささえたつもりだったのに、五本の指先がすっぽりと取れてしまって・・・・。
でも、そのときには痛いとも思わなかった。ただただ、正子はどうしただろうかと、そのことばかりが気がかりだった。正子はどうなったのかと、くるったように探したら、自分のいる反対側で泣いていた。目が痛い、目が痛いと・・・・ 。その時から、正子は目が見えなくなったのです。
正子の手を引いて裏口に帰った時に、二階の窓硝子が落ちてきて、私の背中で粉ごなになった。それで、今でもこの背中には硝子の粉がいっぱいささっているのです。
それを正子が、目が見えないので手さぐりで取ってくれたので、正子の指先がこんなにむごいことになっているのです」
そう言って、孫の手を私に見せる。
仮にシェルター(当時は「防空壕」と言っていました)があったとしても、シェルターから出た後に起り得る被害ですし、窓ガラスが落ちてきたのは倒壊した家の二階からです。さらに正子ちゃんは屋内にいたと思われますので、「シェルターがあれば防げた」かどうかは疑問です。
それと、当時の私の記憶では、多くの防空壕は爆弾が落ちるとつぶれてしまって役に立ちませんでした。
「ほとんどは『火傷』による死、シェルターさえあれば問題ない」(と一応まとめましたが・・・)と断定できないのではないでしょうか。
また、手に入り難いかもしれませんが、原爆の被害の科学的な記述は、『原爆災害--ヒロシマ・ナガサキ』(岩波書店、1985年刊)の92ページ以下の「急性期の原子爆弾症」を参照して下さい。そこにも和田さんの断定への反論になる事実が示されています。
改めて戦争で亡くなられた方々、またその他不遇な死に遭われた方々の御冥福をお祈り致します。
[2026/4/17 人間イライザ]
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