ヒロシマの心を世界に [春宵十話]

核のない平和な未来を創るために

カエナ岬から世界を見る ――360度が自然です――

カエナ岬から世界を見る

――360度が自然です――

オアフ島の西端です

広島ブログ

ブログ激励のため、上のバナーをクリックして下さい

《カエナ岬での経験》

今日はオアフ島の西端、カエナ・ポイント・ステイト・パーク、つまりカエナ岬州立公園に来ています。西側は海そして背後には山が迫っています。360度、ぐるりと頭を巡らすことで自然のど真ん中に居ることが良く分ります。でも近くには電信柱があり、自動車が通るのは仕方がありません。海を見ることでそれらの夾雑物は見えなくなりますので、没我の状態になります。

その地点では、水平線が地球の丸いことを示してくれているのですが、その海を眺めながら感じ考えたことを記録しておきたいと思います。

勿論、自然と一体であることを感じ、その意味も「自然に」頭に浮かびましたので、「考える」こともしていたのですが、それとは違う経験だったのです。

自然の中に浸っていると言ったら良いのでしょうか、あるいは自然の中に吸収されたと言ったら良いのでしょうか?それを頭で考えるのではなく、身体で感じるのでもなく、何となくそこに「居る」のです。「感じました」と言ってしまうのは言い過ぎなのですが、言葉にすると、その瞬間の後の言葉になりますので、それは「感じた」という感覚として身体に残っているのです。

《絶対矛盾的自己同一》

トランプが自己中心の権化だということを話題にしましたし、その前のブログでは、平和宣言の中でのアメリカの世界観を自己中心的と表現しました。そしてそれを突き詰めていくと、人間、誰しも自分の命は大切ですし、食べ物がなくなると我先にと食べ物を手に入れようとする本能も持ち合わせています。

人間が生きて行くためには、どうしても自己中心的でなくてはならないという一面があることは認めなくてはなりません。それが私たちの生き方を絶対的に規制はしているのですが、同時に、大きな自然の中で私たちがほんの一かけらの小さな存在であることも疑いもない事実です。

自然まで風呂敷を広げる前に、家族や親しい人々、仕事仲間や日常的に接触のある多くの人々が生きている人間社会があります。そしてこのような「他者」なしに私たちが生きて行くことができないのも、絶対的事実です。

今日のカエナ岬での私の経験は、そのことを改めて身体全体で吸収したとでも言えば良いのでしょうか。哲学の言葉を使えば、少し大袈裟ですが、絶対矛盾的自己同一を体験したと言えるのかもしれません。

《人生は球である》

そしてその体験は過去を引きずり、そして未来にもつながっています。それはどちらも当然、有限の存在です。けれども、未来の方はこれからどう展開するのかが分らない未知の要素のあることで特別の存在でもあります。

幾何学的なイメージを持ち出したいのですが、これまでの自分の過去は、地球の南半球に相当すると考えてみて下さい。そして未来は、ずっと北に向かっての旅だと想像して下さい。短い場合も長い場合もあるでしょうが、その旅の終着点は、北極点そのものだいう比喩的なイメージで人生を捉えることもできますね。

そうすると、人間の生涯は一つの球面、地球そのもののようになるのですが、北極点まで到達したときには、表面だけではなく、球面の内側にある部分がより重みを増します。充実した中身のある場合、ほとんど表面だけに近いケース等、いろいろの意味付けが可能ですが、このことに関して、もう少し数学を前に出した表現で、説明てきそうです。

そのもう一つの意味を「コンパクト化」という数学の概念で説明したいと思っています。ちょっと長くなるので、稿を改めてお伝えします。

 

今年一年が皆様にとって良い年になりますよう、お祈り申し上げます。

[2026/1/21a    人間イライザ]

[お願い]

文章の下の《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

広島ブログ