一本の鉛筆があれば
――愛も喜びも、悲しみや怒りも表現できる――

鉛筆は元気の源になる
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参政党、AI、SNS、トランプ、高市、維新等々の画策に対抗するために、鉛筆、一本の鉛筆を効果的に使おうと提案しています。
何故「一本の鉛筆」なのでしょうか。前回御紹介した、狭間さんの呼びかけで「一本の鉛筆があれば」というエッセイを多くの皆さんが寄せられました。その中には私のものも入っています。今回は、それをお読み頂ければ幸いです。
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一本の鉛筆
松山善三さん作詞、佐藤勝さん作曲で、美空ひばりさんが歌った「一本の鉛筆」は、 多くの人に感動を与え、共感を呼んだ。この曲を我が子のように愛おしみ自分にとってまた自分の人生において、私たちの心の中で特別な存在だと感じている人は多い。私もその一人だ。
だから、この歌は自然に、私の心の中で同じように大切な、広島•長崎の被爆体験や身近にいる被爆者への思いと結びつき2000年の平和宣言になった。私が尊敬してやまない狭間壮さんの場合もそうだろう。だから、由香さんと御夫妻でこの歌をテーマのひとつとして演奏活動を続け、感動の輪を広げるだけではなく、そこから未来創造のためのエネルギーを汲み取り私たちに与え続けてくれることになったのだと私は信じている。
この歌の持つ不思議な力はどこから湧き出るのだろうか。狭間さんに是非、伺いたいのだが、その前に、先生に宿題を提出するような気持で鉛筆を握ってみた。
「一本の鉛筆があれば」が描いているのは、世界から全てを取り去り、その結果としてただ一つ与えられたものが鉛筆だという究極の世界である。その状況で私たちは何を訴えるのか、という問いである。その「究極性」とでも言ったら良いのか、ギリギリの場にただ一つだけ目につくものがあったとしたら、それは鉛 筆だ、というシーンである。
真っ直ぐで、 中心には端から端までしっかりと黒い芯が通っている、両端は直角に切れ、太さも均一な六角形の鉛筆だ。芯だけでなく外まで赤く丸い色鉛筆ではない。ましてや筆や万年筆でもない。
それも、たった一本。筆箱の中でガチャガチャいうだけの本数もなく、予備のもう一本もない「一本の鉛筆」だ。
目に見える究極の世界の中で、絵として「一本」の意味があるのと同じように、言葉としても、一本」を受けられるのは「鉛筆」だけだ。「一本の万年筆」と言う間に、世間や権威が顔を出してしまう。「一茎の筆」では、風流さが邪魔になる。削る前の鉛筆も、小刀できれいに削って芯の出た鉛筆も私たちから雑念を払い去リ、「無心」そのものを創り出す。
その無垢の状態で人間は、鉛筆を握リ、ざら紙に言葉を連ねて、命の意味を綴り、愛を語リ子どもに夢を託す。「一本」の鉛筆で。「一枚」のざら紙に。握る手には、初めてお母さんに書いた「おかあさんだいすき」や「おかあさんありがとう」の温もりが残っている。そのぬくもりが時を超えて人類のメッセー ジを伝える。
鉛筆には、骨太さもある。ざら紙が破れんばかりの強い怒りや深い悲しみの筆跡にも鉛筆は耐え、それを受け入れてくれる。仮に己が折れ破れたとしてもだ。筆や万年筆では、そうは行かない。戦争に対する怒りや悲しみ、暴力や悪に立ち向かう意思を、鉛筆は言葉に変え、和解や愛に昇華するプロセスを象徴している。一本の鉛筆が、文字を通して表現される愛や平和や真実の視覚的なシンボルな ら、言葉に音を付して、そのメッセ—ジを豊かに届けてくれているのが狭間壮さんの声であり、由香さんの伴奏だろう。お二人には心から「ありがとう」という 言葉を贈リたい。筆箱から新しい鉛筆を取り出して、美しい紙を探してきて、何度も何度もこの言葉を書き贈りたい。
皆様にとって、きょう一日が素晴らしい24時間になりますよう!
[2025/11/6 人間イライザ]
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