原子力潜水艦の末路
――『渚にて』が70年近く前に予見しています――

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昨日のブログでは、1957年のイギリス核実験に対する日本政府の抗議行動を取り上げましたが、同じ1957年には、イギリスの小説家ネビル・シュートが『渚にて』 (英語名はOn the Beach,オンザビーチ) を書いています。
その2年後1959年にはスタンレー・クレイマー監督、グレゴリー・ペック主演で映画化されました。私もその年に見て大きな影響を受けた映画です。
舞台になったのは、核戦争によってオーストラリアを除く世界が、壊滅的状態になってしまった地球です。アメリカも廃墟になり唯一残っていたのがソーフィッシュ号という原子力潜水艦一隻という想定でした。
今高市内閣は日本も原子力潜水艦を保有するうことを考えているようなのですが、その行き着く先が『渚にて』と同じことになる可能性については、何の心配もしていないのでしょうか。
全面的な核戦争が起きたとして、アメリカとか中国あるいはロシアは広大な領土を持っていますので、そのどこかで核攻撃の影響を受けない地域が残るかもしれません。もっとも放射線の害はありますし、核の冬も訪れますから、それらの地域の壊滅も時間の問題です。また、それぞれの国は地下にかなり広大な防空壕のような地下都市を作って、核攻撃から逃れる術を当然考えているはずです。
狭い日本はと言うと、数発、ことによると一発核兵器で全滅してしまいますので、こうした国とは比べ物にはなりません。
仮に地下都市を建設しようとしても、このところ全国で頻発している水道管の大事故を考えると、日本という国が地下の大都市を問題なく維持していく能力があるのかどうか全く分りません。
となると、核戦争で生き残る日本人は、新たに保有する原子力潜水艦の搭乗員だけということになりかねません。まさに、『渚にて』状態になるのです。
それでも良いのなら、原子力潜水艦保有に対する障害は一つ減る訳ですが、こんなシナリオが成り立つ出発点になるような原子力潜水艦を購入するのではなく、外交の力によって戦争を回避するために本腰を入れるという選択肢を真剣に考えた方が良いのではないでしょうか。
原潜保有との大きな違いが何かと言うと、原子力潜水艦はお金と、アメリカに諂うことで手に入るものです。しかしながら、世界を相手に外交の力によって戦争を防ぐためには、全国民的なまとまりと、そして他国に対する誠意ある対応、さらには多様かつ複雑な問題を解決するための知的な能力がどうしても必要になります。私はまだ日本の能力としては、日本の本質としては後者の組み合わせの方がはるかに優れているように考えているのですが、いかがでしょうか。
そして『渚にて』の最後は次の言葉で締めくくられます。「There is still time, brother」。まだ時間は残されているのです。原潜ではなく、平和の原点に戻る時間です。
皆様にとって、きょう一日が素晴らしい24時間になりますよう!
[2025/11/2 人間イライザ]
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