#憲法 は #死刑を禁止 しています
――#証明 は #誰にでもできます――
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「100円のトマトに200円払え」と言われたら、という問題提起で、「200円払え」に相当する憲法上の問題点を例示していますが、今回は二つ目です。
多くの皆さんは、死刑が合憲だと考えていると思いますが、憲法のいくつかの条項からの論理的な帰結は、憲法は死刑を認めていないということです。
トマトの例で再度確認しておくと、私たちの多くは、「トマトは200円」だと信じ込まされているのですが、トマトの本当の値段は「100円」だということなのです。この点を、再び『数学文化』から引用して説明しておきましょう。今回は「証明」付きです。
2. 憲法は死刑を禁止している
憲法を「数学書として読む」ことから比較的簡単に得られる結論の一つは、「憲法は死刑を禁止している」です。これを「定理 A」と呼んでおきましょう。
実は憲法12条、13条、25条のそれぞれが、独立した形で死刑を禁止しています。しかし、昭和23年の最高裁判所の判決 ( 以下、「判決」と略す) は、死刑が合憲だと述べています。(最大判昭和23年3月12日 刑集2巻3号191頁)。以下、憲法13条を根拠にして(定理A)を証明します。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
以下の証明では、「すべて国民は、個人として尊重される」に注目します。後半部分の意味と、それを切り離して考えて良いことは、『数学書』の4章に詳しく説明してあります。
3. [定理A]の証明
①「個人」とは「生きている」人である。
②「個人として尊重する」とは、「生きている人として尊重する」と言い換えられる。
③「生きている人」の「生命」を奪うことは、「生きている人」の存在を無にすることである。
④それは「尊重」の正反対の行為である。
Q.E.D. (注3)
その他の条文についても同様の議論が成立します。
かくして、死刑については、素直に字義通りかつ論理的に憲法を読む立場と、最高裁判所による確定判決という立場から、それぞれ正反対の結論が出てきました。では、どちらを採用すべきなのでしょうか。
通常の法的枠組を尊重すれば、当然「判決」が最終的判断になります。同時に、憲法を字義通りに、そして「論理的に」読むこともゆるがせにしてはいけないはずです。
その視点から、(定理A)の証明と「判決」とを比較してみましょう。 (定理A)の証明は今お読み頂いた通り、簡単明瞭です。そして、死刑が違憲であるという「証明」は、誰が証明しても、誰がその趣旨を説明してもその論理的筋道や結果には全く影響がありません。小学生がこの証明を掲げて、その正当性を訴えられることにこそこの立場の強さがあると言って良いのではないでしょうか。それは、この「証明」が純粋に客観的存在だからなのです。
このように、誰にでも分る形で死刑が禁止されていることを憲法は示しているのですから、それとは正反対の結論を主張する側からは、最低限、何故、(定理A)の証明をそのまま認めることができないのかを、論理的に説明する義務があるのではないでしょうか。これは今からでも遅くはないはずです。
(注3) Q.E.D. とは、ラテン語のQuod Erat Demonstrandum(かく示された)の略で、多くの数学書では、証明が終ったことを示す記号として使われている。
[続きます] (次回は最高裁判所の判決の批判です)
2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。
[2024/2/7 人間イライザ]
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