#武谷三男 博士の結論
――#科学者の社会的責任 について――
武谷三男氏の著書
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昨日の本欄では、武谷(前回に続いて敬称略)による朝永批判まで辿り着きましたが、今回はその続きです。『科学者の社会的責任--核兵器に関して』(勁草書房、1982年)の最後には武谷と哲学者の粟田賢三の対談が掲載されていて、その最後の部分が武谷の一番言いたいところです。その部分を以下、引用します。
粟田 まず価値観についていうと、私たちの価値観、 または価値意識は重層的構造をもっているのだと思います。手近かな例で言えば、 一家の主人にとっては家族の生活を維持することが一つの価値です。その人が会社に勤めている場合、会社を発展させてゆくことが価値になります。 このように一個人の生活の場面は、 つぎつぎにいわば層をなして拡がっていて、個人の価値意識は家族関係、職業上の関係、社会的な関係、国家との関係等々によって重層的になっているわけです。それに対応して家族に対する責任、職業上の責任、社会的責任、国家に対する責任、さらに大きく人類に対する責任という、 いろいろな段階の責任があるわけです。そして、例えば自分の勤めている会社への責任を果すことが、社会に対しては無責任になることもあるし、国家に対して責任をはたすことが、その国家を代表する政府の政策にしたがうことになる場合には、他国民への惨禍を招くことになることもあるわけです。
だから、今日では、科学者の責任はもう国家の枠をこえて、人類全体に対する責任になっていると思います。国家、というよりはそれを代表する政府の政策に反対することが、人類に対する責任をはたすことになる場合があるわけです。
武谷 大いにあるわけですね。
粟田 だから科学というものはそういう普遍性をもつようになっているものですから、 一国家の手段や道具になっては困るわけです。核戦争で人類が急速に死減してしまうか、環境破壊や資源の枯渇で人類がしだいに死滅に向かうかという危機に面しているのが現在の状況ですから、今日における科学者の責任、通常の市民とはちがう専門的知識をもつ者としての科学者の責任は、人類の存続にとって危険なことを予見し、それについて警告することだと思います。 またはっきり予見できない場合でも、危険の可能性が考えられる場合には、そのことを指摘することだと思います。
武谷 ざんげしたりなんかしてもあまり意味がない(笑)。
粟田 意味ないですよ。それより危険を警告することですよね。
武谷 それがいちばん重大な問題だと思います。
後悔したり懺悔したりすることに意味はないという見解ですが、オッペンハイマーも、自分は遺憾の意を表したり後悔したりということは決してしなかった、という点を最後まで強調していました。それに付いては、本ブログの2023年9月26日のエントリーをお読み下さい。
それは、物理学者の藤永茂氏の『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』からの引用だったのですが、次の機会には藤永氏の結論を紹介したいと考えています。
最後に皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!
[2023/12/10 人間イライザ]
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