「議員定数を減らす」目的は何?
――社会の「空気」に騙されないために――
日本維新の会が典型的なのですが、その他の人たちも含めて、「議会改革」 = 「議員定数削減」といった安易な図式でのアピールがずっと続いています。それに迎合する人たちが余りに多いことにも吃驚しています。なぜこんなことが社会を覆う「空気」になってしまったのでしょうか。
議員定数削減の理由としては、「無駄を省く」、つまりお金が節約できるという大義名分があるようです。それが、多くの人に支持されてしまうのは、「政治」それ以上に「政治家」に対する不信感が大きいからでしょう。
「政治家を減らせば無駄が無くなる」ということは、「政治家」 = 「無駄」という等式が成り立つことなのですから。
議場で居眠りをしている議員の画像は大きなインパクトを与えますし、私利私欲のためにしか動かない政治家像も定着しているように見えます。となると、上の等式が正しいことになり、「そんな政治家は止めさせろ」という結論に行き着きます。「止めさせろ」の部分は「議員数削減」に短絡してしまうのが恐ろしいところなのですが、そこに一つの問題があります。
怠慢な議員や利権のための議員を「止めさせる」ためには、「選挙でもっと有権者のために仕事のできる議員を選べば良い」、という合理的な選択肢があるにもかかわらず、「議員数削減」という掛け声の前には、それが消えてしまっていることです。
「選挙に行っても何も変わらない」という言葉にまとめられる、選挙制度そのものに対する低い評価や、一票の価値が目で見て分り難いことが原因である、自分の持つ一票の力についての無力感等は、ほとんどの人がどこかで感じているようです。
このような「空気」に覆われているのですから、「単純明快」「快刀乱麻」に見える解決策に、簡単に心を奪われるのだろうと思います。それに対して、私の説明は「快刀乱麻」でも「単純明快」でもないのですが、それでも、原点に戻っての議論をしなくてはならないのです。
それは、どのような条件が満たされたときになるのかは分りませんが、人間や社会、そして世界の未来についての正しい選択が、ほんの一瞬の間でも大多数の人に共有され実現される可能性を信じることしか私たちにはできないからです。
まずは、「定数削減」が間違いであることを指摘します。そのためには、極端なケースを考えることが有効です。
「削減」の反対で、全ての有権者が議員になったとしましょう。それは、「直接民主制」と呼ばれていますし、それを採用している自治体がアメリカにはかなりの数あります。私が住んでいたアーリントン市もそうですし、親友が住んでいたマルボロ村もそうです。
その政治の質がずいぶん高いものであることは、私の実体験から保証できます。古代ギリシアの都市国家でも直接民主制が生きたいましたし、その政治の有様は今でも私たちがしばしばお手本にするくらい優れたものでした。
問題は、お金と時間が掛かることです。
逆に、「議員削減」を極限までしてしまったと考えて下さい。それは、国の全て、あるいは町や村の全てを一人の人に託してしまう、つまり一人の人間が全ての権力を持ってしまうことです。これは、独裁政治と呼ばれます。そこまで極端にしなくても、今の国会議員数を減らして、全部で10人の国会議員だけが全ての力を持つ状態を考えて下さい。
これも、ほぼ独裁政治ですね。しかも、その独裁者が、私たちが嫌悪感を持つ、最初の方で例示したような利権政治家だったとしたら (そうではない人が独裁者になるというのは、ほぼ自己矛盾ですが) 、私たちは絞り取られるだけ絞られて、「金が掛かるから議員数を増やせ」などという提案さえできない状態になるでしょう。
これで、「議員数削減」という掛け声の虚しさが伝わったでしょうか。減らせば良いものではないし、増やせば良いというものでもないのです。何のために、議員を減らしたり増やしたりするのかという、議員の仕事の目的を明確にして、その目的を達成するのにふさわしい範囲の議員数を決めるべきなのです。
その目的の一つは、社会の持つ多様性を政治に反映させることですし、一人一人の人間の持つ本質をお互い同士尊重し生活するための寛容さを持つ社会を作ることです。
それをもう少し具体的に、現実との対比で考え見ることにしましょう。この項も続きますが、皆さんも一緒に考えて下さい。
最後に今日一日、皆さんにとって、素晴らしい24時間でありますよう!
[2022/4/4 イライザ]
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