話の流れで、「イライザさんは晩酌をされるのですか」と聞かれて、何と答えて良いのか分らない経験を何度かしました。この問の意味は、「晩御飯と一緒にお酒を飲むのですか」ですから、答は「イエス」なのです。にもかかわらず、この問そのものにも、そして「晩酌」にも違和感があるのです。もう一つのカギはビールです。
「何故?」と思われて当然です。「晩酌」の意味を辞書で確認すると、「家庭で、晩飯のときに酒を飲むこと。また、その酒。」 (ベネッセ国語辞典電子特別版) なのですから、意味としては最初の問には何の問題もないのです。問題は私の方にあります。
まず、アメリカ生活が長かったので、生活習慣のかなりの部分は今でもアメリカの習慣に従っています。行動面や所作等で日本流に戻っているところもあるのですが、感覚的・精神的には、30年以上も前の生活のままのところが残っています。そしてアメリカ生活で、ディナーの前にカクテルの時間があるのは当り前で、そもそも「晩酌」という感覚そのものが存在しないと言っても良いくらいなのです。ですから、「晩酌をするのか」という問そのものが存在しない頭で、この問を聞くことから来る違和感があります。
でも、子どもの頃には目の前で「晩酌」を見ていたのですから、そちらの方の印象なら違和感がなくても良いはずなのですが、それもちょっと違っているのです。
私が記憶している「晩酌」は、卓袱台を囲んで親子五人が座っているのですが、父の前には、お酒の入った徳利と、かまぼことか塩辛のようなおつまみ、あるいは酒の肴があり、母がお酌をして父がゆっくりとおつまみを摘まみながら盃を干す姿です。父の酒が少し進んだところで、私たちも御飯を食べることになるのですが、「晩酌」という言葉には、そんな父の姿がどうしても欠かせないのです。
古い記憶の部分でも、「晩酌」と聞いて頭に浮ぶのが、徳利、お酌、おつまみの三点セットですので、現在の我が家の夕食とは全く趣が違っています。それが同じものだとは認めたくない、心のメカニズムがどこかにあるのかもしれません。ことによると、「晩酌」の中に使われている「酌」、つまり「お酌」と切り離せないお酒の飲み方に違和感があるのかもしれません。
さらに、私の好きなお酒がビールだということも、イメージの違いに貢献しているのかもしれません。一言で言ってしまえば、「ビール」は乾杯するものなので、「晩酌」のイメージとは合わないからだ、とまとめておきたいと思います。
[2019/4/25 イライザ]
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