9月19日は、強行採決による戦争法が「成立」してからちょうど一年目でした。この間、毎月19日には、この日を忘れず、戦争法を廃止するための世論喚起を目的として、私たち「戦争をさせないヒロシマ1000人委員会」では、街頭行動を続けてきました。署名を呼び掛けたり、チラシを配ったり、また街頭での演説を通して戦争法が如何に私たちの生活や生命、人権を脅かすものであるかもアピールしてきました。
1年を迎えての一里塚としての街頭行動は、カープ優勝の感動渦巻く中でのことでした。自然に、戦争とカープ、そして野球やスポーツとの関係についても思いを巡らせることになりました。
若い世代の皆さんには「沢村賞」でつながっているのかもしれませんが、そして私たちの世代でも彼が活躍する姿は見ていないのですが、あまりにも有名だったため、沢村栄治という名前は、戦前の野球界の天才的剛腕投手として鮮明に記憶に残っています。例えば、日本で初めてのノーヒットノーランを達成したり、アメリカのメジャーリーグからスカウトされかけたりという逸話は有名です。
また彼が召集されたこと、そして戦死したことも良く知られていますが、その背景はあまり知られてはいないようです。ウィキペディアの記述を元に整理しておくと、彼は、慶応大学で勉強したいという希望があったにもかかわらず、読売新聞のドン、正力松太郎に「一生面倒を見る」と口説かれて中退、巨人軍入り。戦争が始まると、大学生あるいは大学出と、そうではない学歴の持ち主には差別があり、1938年から1940年まで現役兵として日中戦争に従軍、1941年から42年までは予備役の兵として応召、1944年10月には再度応召、12月に戦死しました。
軍隊生活で肩を壊し、オーバースローからサイドスロー、そしてアンダースローとスタイルを変えて生き残る努力を続けましたが、1944年のシーズン前には巨人から解雇されています。「一生面倒を見る」という約束も戦争の前には力がなかったようですし、野球そのものも殺されていったのです。つまり、1943年には野球だけではなく、すべてのスポーツ競技大会が禁じられたのです。
ロシア生まれの剛腕投手スタルヒンの悲劇も有名ですが、それも戦争がなければ避けられたものですし、1940年には東京開催が決まっていたオリンピックも、戦争のために開催を返上しています。
今は平和だからそんなことはもう起らない、と歴史を振り返ることなく安穏に暮らすことも可能です。でも、戦前の社会でも、「よもや」と思うようなことが次々と起り、最悪のシナリオになって行ったのです。そして「記憶されない歴史は必ず繰り返される」ことも事実です。
となると、大切なのはどこかで線を引くことなのですが、それを考えるために、戦争になったら野球はどうなるのか、スポーツはどうなるのか、想像してみて下さい。私は、「戦争のできる国」にするかどうか、戦争法に流されてしまうことで次々と既成事実を積み上げる側に加担して行くのかどうか、が大切な一線だと思っています。
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