一昨日の遊川さんのドイツ人の話に触発されて、ポツダム・ヒロシマナガサキ広場の記念碑建設にかわかる話をもう一つ付け加えます。
ヒロシマナガサキ広場の記念碑建立で、どうしても忘れてはならない人がいるからです。ドイツ・ベルリン在住の被爆者外林秀人さんです。

被爆体験を語る外林さん
外林さんは、1927年長崎市生まれですが、16歳の時、広島で学生として化学の授業を受けている時、爆心地から1.5kmの地点で被爆されました。外林さんは、京都大学卒業後、1957年、28歳の時にフンボルト財団の奨学生としてドイツに渡られて以来、壁のできる前から、壁のあいだ、壁の後まで、常にベルリンに住んでおられました。(本人の言)
外林さんは、長い間原爆の体験を語ることはなかったそうですが、2006年愛知万博の最終日、「ドイツ原子力物語」の共著者である友人からの強い後押しで、名古屋の講演会で初めて自らの被爆体験を語られたそうです。
それがきっかけとなって、2007年に当時始まっていた「ポツダム・ヒロシマの広場をつくる会」の運動に賛同し、会員となるとともに、「広島と長崎への追悼」の講演会をドイツだけでなく、スイスやオランダなどで精力的に行い、被爆体験を語るとともに募金を集められました。計40回を超えています。中心メンバーの一人でした。
私が外林さんに初めてお会いしたのは、広島での募金を呼びかけるため帰国された2009年秋です。広島滞在中に何度かお会いしましたが、同時期に帰国し、被爆石探しをはじめられた石彫家・藤原信さんと一緒に、広島の被爆石である広電の敷石を見に行ったことが特に強い思い出となっています。そうそう、記念碑の設計・作成者の藤原信さんが、このプロジェクトに加わり、大きな役割を果たされことになったのも、外林さんとの友人関係がなければあり得ませんでした。

広電の被爆石
ですから2010年7月25日の記念碑除幕式で、外林さんが中心的存在であったことは、ある意味当然のことでした。外林さんは、そのスピーチの中で「広島、長崎の被爆石は、被爆者で、次のメッセージを持ってきました。『核兵器は、人類史上で今までに開発、応用された兵器の中で最悪のものです。原爆の結果を忘れてはいけません。忘れるとまた再び起こります。人類は平和を維持するため、全力を尽くして働かないといけません。原爆のない世界を祈念します!』」と話されました。
除幕式でのスピーチ
そしてその後のマスコミのインタビューでは「このベルリン、ブランデンブルク周辺の被爆者といえば、長い間私一人でした。でもこの慰霊碑(筆者注:外林さんは記念碑にことをそう呼んでおられた)ができてからは、何となくたくさんの慰霊が来てくれたような気がします。ずっと一人で叫んできたのが、今は多くの人が後について立ってくれる。とても心強い思いがします。」と答えておられます。
この言葉を聞くだけで、被爆石を送った意味があったなとつくづく思います。「除幕式には必ず来てください」と声をかけていただいたのも外林さんです。

樹木葬された外林さんのお墓(木の手前)
外林さんは、残念ながら2011年12月30日に永眠されました。いつかはお墓参りをと思っていたのですが、昨年7月25日に開催された5周年の記念式典に参加するため再びドイツを訪問した時、ようやく実現しました。外林さんは、「ヒロシマ・ナガサキ広場」から歩いて15分ほどの墓地で、静かに眠っておられます。
今日はもう一度、いのちとうとしがアップしました。明日からはいよいよイライザさんの再登場です。
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