今日は、一昨日約束しましたドイツ・ポツダム市にある「ヒロシマ・ナガサキ広場」について、特に広場の名称が、「ヒロシマ広場」から「ヒロシマ・ナガサキ広場」に変わった経緯について書いてみます。この広場は、1945年のポツダム会談に参加した米トルーマン大統領が宿泊していたゲストハウス(現在は「トルーマンハウス」と呼ばれている)の道を挟んですぐ前にあります。

記念碑の後ろの木立の間にトルーマンハウスが見える
トルーマンハウス
多くの人たちの努力によって2010年7月25日に盛大な「記念碑の除幕式」が行われました。写真に見える記念碑の横に長い石は、36tもあります。よく見ていただきたいのは、その前にある銘板とそこに設置されている二つの石です。いずれも日本から送られた被爆石です。向かって右側が、広島の路面電車の敷石です。左側は、長崎・山王神社の境内にあった石です。山王神社は、有名な片足の鳥居があり、境内には被爆した大楠が、今も健在です。
この二つの被爆石が、ここに据えられることになったのには、ちょっとして出来事がありました。私の「せっかく広島の名の付く広場の記念碑なら、被爆石も一緒に設置したら、もっと意義があるのでは」という提案が話し合われた時、ドイツ在住の学生(記念碑を作成した藤原信先生の教え子)から「どうしていつも広島なんですか」と指摘されたそうです。実はその学生は、長崎出身でした。彼女の声はまさに鶴の一声だったようです。藤原先生は、二つの被爆地の石をそろえようと自ら長崎市に出向き、被爆石探しが始まりました。なかなか被爆石に出会うことができなかったようですが、何とか山王神社の好意で、長崎からも被爆石が、ドイツにわたることになりました。広島の被爆石は、広電の協力を得て、割と簡単に準備できました。こんな経過で見つかった長崎の被爆石ですから、両被爆地の被爆石が並ぶモニュメントは、世界中でもここにしかないと思います。

独日協会ベルリン合唱団
こうして両被爆地の被爆石が並ぶことになりましたので、広場の名称に「ナガサキ」を入れようとの声が上がりました。しかし2010年7月25日には間に合わず、ようやく2012年にポツダム市議会の承認を得て、「ヒロシマ・ナガサキ広場」と名称が変わりました。
ところで除幕式が8月6日でなく、なぜ「7月25日」なのかと思われる方もおられると思います。その理由は、記念碑の銘板には、次のように刻まれています。
1945年8月6日と8月9日に
広島と長崎に投下された原爆によって
犠牲となった人々を追悼して
連合国によるポツダム会談が
1945年7月17日から8月2日まで行われ、
正面にある邸宅に滞在していた。
1945年7月25日、
アメリカ大統領の同意の下、
ワシントンから軍の原爆投下指令が下された。
原爆の破壊力は、数十万の人々を死に追いやり、
人々に計り知れない苦しみをもたらした。
核兵器のない世界を願って
上に埋め込まれた石のうち、
左が長崎から、右が広島からきた石です。
石はあの日、原爆によって被爆しました。
現在は、もう石に危険はありません。
以上の碑文が、ドイツ語、英語、日本語の三ヶ国語で刻まれています。最後の一行ちょっと気になりませんか。ドイツ人が、いかに放射能汚染に敏感なのかを示しています。当時広島大学の先生の協力を得て、被ばく線量を証明した書類をドイツに送りました。
もしドイツを訪問されることがあれば、ぜひ「ヒロシマ・ナガサキ広場」をたずねてみてください。ベルリン市中心部からでも、30分ぐらいで行くことができます。
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